猪熊弦一郎現代美術館にてホンマタカシ展
猪熊弦一郎現代美術館にてホンマタカシ展へ行った。のっけから僕の好きな覗く作品があり楽しい。
最後にインスタレーションの作品が気になった。たくさんのデジタルフォトフレームからキノコの写真があり、その灯りですぐ向かいの森の大きな写真が薄暗く見える。デジタルとアナログの対峙と言おうか、フォトフレームの電源はワザとらしく露わにされ、他の作品では電気関係の配線はスッキリ隠されていたので何か意図があるに違いない。森全体とその森にある子供たち(キノコ)。それがどういうものか未熟な私は不透明で悩まされた。何かその文明といおうか科学技術に言いたいことがありそうだ。
14時からの学芸員の作品解説に参加した。僕はよく作品解説で勉強させてもらっている。芸術に間違えというのはないというが、「明らかなベクトルの違い」「ズレ」がないように気をつけたい。
最後のインスタレーションでの作品解説で、これは去年の東日本大震災での原発事故の件を扱ったものということだ。
にゃるほど!
知識的になことを言うと、キノコは放射能をどんなものよりも真っ先に吸収するそうで、それを子供たちと言っている。しかもキノコと森は福島県のものらしい。電気によって映された子供たち。電気がないと見ることのできない子供たち。電気の灯りは森を灯す。電気がないと生きることは困難な世の中で起きた原発事故。ただ、原発がないと生きていけないのかは僕には分からない。
音が今日から流れ、その音は自然にある音である。ここには自然と科学の共同体があるのではないか。写真も科学技術の一種である。そんなことを作者も感じたのではないだろうか。何も昔に戻りたいわけではない。科学の進歩に対して人の心が追いついていないのだ。だから、あんな大惨事が起きた。これからの生活について考える大きな事件だ。そしてこの森の子供たちは再度、私たちに淡い光で投げかけている。
本編のニュードキュメンタリーも写真の中身(タイトル)などを、隠して撮られた真実を曖昧にしている。わかるのは撮られた年だけ。その年すらも本当なのかと疑ってしまうくらい疑わせてくれた。シリーズ物を年で区切って展示しているのでシリーズのまとまりではなく、年のまとまりになっていて、かなり戸惑った。ニュードキュメンタリーならこの時間軸を追ってストーリー(記録)があるのでは…。娘の写真のとなりには血のついた雪の写真。僕は娘が殺されてしまったような気さえして苦しんだ。
学芸員の方にこの配列について質問した。この配列で僕は混乱したと。何故こんな配列にしたのかと。
この配列は今回の猪熊弦一郎美術館だけで行われた展示方法らしく、他の東京、金沢ではシリーズ毎に区切った展示をしたそうだ。それは作者の要望であった、と。続けて、あなたのおっしゃることはよく解りますが、そのような混乱があってもいいから作者はそうしてほしいとの要望であった、と。
作者がそういうのなら仕方がない。問題は何故そこまでしてこのような展示をしたかったのかである。1999年~2012年迄の時の流れとして作者の活動を知ることになる。色々なシリーズが並行して仕事をしている。雑誌のグラビアを含め並列された展示であって、シリーズ個々の感想ではなく1人のホンマタカシという人の作品として巨大なひとつの作品として見たとき、初めてこの人を知った。なんもない無機質な写真である。なぁに僕はたいしたことはやってねぇよってな具合にも見える今回の展示であった。