column | 2012/06/23 | yusuke kaseno 続・珈琲館のインスタレーション 以前話した珈琲館のインスタレーションのような事はトマソンというらしい。赤瀬川原平氏の発案です。今日教えて頂いただいたのですが、以前に誰かとトマソンについて話をしたような…。忘れっぽいのか忘れるくらい染み付いていたのか、しかし自然に見えた。ありゃ良い作品です。もう一回見に行きたい。
column | 2012/06/19 | yusuke kaseno 広島現代美術館の解体的変容 先日広島現代美術館へ行って参りました。チェコのアールブリュット展として二人の方の作品を中心に見ました。解体的変容ということでプルニーの解体と、ゼマーンコヴァーの変容が一つの言葉として表されていると心に留めながらみた。個人的な事だがプルニーの作品に特に感心を持ったが、やはりアールブリュットだけあってか、その人の内情を知らなければ作品に深く見ることはむつかしいと感じた。見に行けば解るが、最初に二人の略歴を紹介し、どのような経緯というか人生の経験や個人の関心事が作品に現れているのかが解る。 アールブリュットの類だからか、この二人は作品を他者である私達に見せたい願望があったのか気になって学芸員に聞こうかと思ったが運が悪いのか学芸員の方を捕まえる事ができなかった。そして、解体的変容という言葉から生まれる意味として何を伝えているのかが上手く読み取れず考えていた。まあいいやと思いながら作品を見ていると、他のアールブリュットとされている方々の作品もあり有名どこではダーガーの作品も初めてみることができた。この人は他者に見せる気などなかったようだが、ある一人のは見せたかったようだ。 見せたいか見せないのかそれ程重要でない気もするが、僕は見せるために作品を作っている人間なので、もし仮に見せない又見せたくない作品を見せられてしまった方はどういう気分なのか心情が知りたい。割とアールブリュットの作品は本人とあるパーソナルな物事との対話として作品が生まれているのが少なくないし、誰にも見せたくない秘密の手紙交換のやり取りを覗いている感覚すら覚える。特にそれは後半の方々の作品に強く思う。今回ピックアップされている2人の作品はあそこまで大量に作品を展示する必要はない気がする。何故ならどれも似ているからだ。あえて例えるなら、ロックバンドのAC雷DCのように毎度アルバムの調子が同じで、ブレないところに良さがあり、悪く言えば一変調子である。そう見ると、プルニーとゼマーンコヴァーの作品は解体的変容はしていない。ただ、作品の中、彼らの内の中は解体的変容を繰り返し発展や進歩ではなく何かが変化しているのかなと思う次第でございます。 最後に、時間の都合上映画が観れなかったのが非常に残念でなりせん。どこもそうですが、もう少し遅くまで美術館は営業してほしいものです。
column | 2012/06/16 | yusuke kaseno 珈琲館のインスタレーション 今作っている作品はディゾルブを多用し、二つに別れているもんを一つにするという禅の思想をテーマに頑張っている。 さっき(6月16日)モーニングを食べに喫茶店へ行った時、自然なディゾルブをみた。それは、庭にある鯉を泳がしている小さな池に、大きな窓ガラスの反射により店内の床や客が映り込むというインスタレーションができていた。個人的に感動した。何が良かったかというと、水面と水底が見事に調和していることである。水面と水底は自由と不自由くらい相反するもんであるが、同時に同じもんでもある。簡単にいうとそういうことが表現されていて、僕がやりたかった感じのことがここにあった。水底には店内のフローリングが映り、水面にも同じ像が不透明に映り小雨が小さな水紋を広げる。そして泳ぐ鯉は水面と水底の間を繋ぎあわせるように泳いでいる。この鯉が僕の理想である。